半身浴の研究

ところで、真面目に書きすぎで突っ込めないっていう意見が出てたので、1,2年前に)エントリーに新たな研究成果を加え投下することによって雰囲気を変えてみる。全くシステムとは関係ないけど、って、そもそもベクトルが違うって!?
いやいや、「温故知新」、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」、そこには何か学ぶべきものがきっとあるはずです。



「半身浴とその歴史」

 さて、今日4月26日は何の日でしょう。実はこの日、歴史上名高いある衝撃が走った日なのです。


 ところで、半身浴とは何故、下半身浴とは言わないのでしょう。鳩尾より下で入浴するので、下半身(腰より下の部位)よりも上にある位置が基準だからでありましょうか。それとも、下半身という言葉に付きまとうイメージのせいでしょうか。実は半身浴は、全身浴や部分浴といった他の入浴法とは、全く別の系譜に存在するのです。故に、元々は鳩尾より下だけで風呂に入るというものではないのです。


 そもそも、半身浴の歴史は長く不明な点が多い。しかし、現在では主に2つの説が主流となっています。

 1つは各地の伝説に残る役小角(えんのおづの)に由来するものです。これは、伊豆大島から、毎夜海を歩いて渡り富士に登ったという伝説から紐解かれたものです。この海渡りは、"鬼の上に胡坐をかき海を滑るように移動した"と言うものでありますが、日本現報善悪霊異記異本に寄れば、それは上半身を水面に出した立ち泳ぎであるということが夙に知られております。

 2つ目は、頼光四天王の筆頭渡辺綱の孫に当る松浦久を祖とする水軍・松浦党の分家筋に当たる松浦浴(まつら・あみ)が興したとされる古流泳法の一奥義とする説です。例えば、元寇の折の元軍撤退の1要因として台風が語られますが、皆さんは不思議には思われないでしょうか?何故、日ノ本は無事であったか。そうです、半身浴の元となった松浦党の一泳法により、波と風の被害から文字通り身を挺して日ノ本を守ったのです。水面下の足かきにより波の力を弱め、水面上の上半身で暴風を防いだのでした。この水面に半身を出しその場で留まる泳法は海の防塁と謂れ、服部家所蔵蒙古襲来絵詞にも示されるところであります。こちらの説は役小角由来説よりも時代が新しく信憑性が高いと言われています。

 このように小角説にしても松浦説にしても、元々は泳法が元にあったのです。この一部が半身浴として発達していくのでありますが、まずは戦国時代に武将の治癒に使われだしました。しかし、文明開化と共に一旦は消滅しました。この辺りはあまり目ぼしい出来事はありませんでした。


 再び半身浴が脚光を浴びる事となったのは、1879年明治政府が招聘した所謂お雇い外国人と共に来日した宣教師ニコライがきっかけでした。ニコライは、戦国時代の宣教師ザビエルを研究してい時に戦国時代に健康法として発展していた半身浴を発見し海外で紹介したのです。その後、WWIの折ドイツ人捕虜によって再び日本に健康的入浴方法として紹介されたものです。

 この一旦失われた半身浴の保護に努めたのが詩人八木重吉の親友徒滝であります。しかし、伝統の保護だけに固執した運動は早くも進歩という道を閉ざすこととなりました。式年遷宮のように新しきに触れることによってこそ伝統を伝統たらしめるのであります。もっとも伝統復活を叫んだ徒滝は上っ面だけの伝統に嫌気を指し草創期に離反したのでありました。


そして15年。さあ、いよいよ今日の「その時」がやって参ります。


 半身浴界に衝撃を与えたのは、長年姿を消していた徒滝の考案した半身浴・水天浴法でありました。それまで、鳩尾下5分5厘と定められた浴法を根底から覆しました。徒滝のそれは逆鳩尾下5分5厘という命を賭けた離れ業であります。これは、日本のみならず世界に驚嘆と喝采を持って迎え入れられたのです。

 このように、伝統とは新しきを生む土台であり、ただ保つだけなく更に発展させるということが、次の世代にその技を伝える力になるという事実を、徒滝の水天浴法は再認識させることに成功し、半身浴の復権がなされたのでした。この日の朝の事を、近年発見された日記でこう語っております。「日本古来より伝わりし半身浴がただの風呂の入り方の一種として朽ち行くのは忍びない。私が考案した水天浴法により今再び古の精神を取り戻すことができるか。今日、四月二六日が、半身浴にとって一つの転機になることを私は願う。」


 残念ながら徒滝が打立てた記念すべき半身浴・水天浴法は、徒滝の亡き後、会得できるものが居なかったため今に伝えられていません。しかし、その衝撃は、その技を目撃した横溝正史によって小説となり後、映画化された八つ墓村に見ることができるのです。